今回の記事は「個人間融資 全国対応 メルカリの生存戦略」です。
山田CEOにお話を伺いました。
天才に触発され独立
山田に多大な影響を与えた体験はもう一つある。今も親交を温める知己、川島優志との出会いだ。山田が「天才」と呼ぶ川島は米グーグルを経て現在、世界的に人気のスマホゲーム「ポケモンGO」を手掛ける米ナイアンティックの幹部を務めている。
2人はCD-ROM形式のデジタル同人誌を共同制作する活動で意気投合。内容は主に大学の演劇サークルの動画やキャンパス周辺の飲食店マップなど。ところが川島は2号分を仕上げると、さっさと大学を退学してしまう。コンピューターグラフィックスを学ぶため単身渡米したのだ。
山田は大きな衝撃を受けた。「海外への漠然とした憧れはあったけれど、いきなり世界に飛び出すなんて」。想像の壁をやすやすと越えてみせたのが川島だった。
川島の行動に触発された山田は、大学4年生の時に内定し、インターンとして働いた楽天への入社を辞退する。代わりに選んだのはフリーランスで働く道だ。山田が大学を卒業した2000年は折しも日本のインターネットが急成長し、ネット関連の仕事を次から次へと面白いように受注できた時代でもあった。
その後も川島とは連絡を取り合い、たびたび渡米していた。04年にはサンフランシスコに移住し、それからの「生存戦略」を模索した。
念頭にあったのはシリコンバレーでネットビジネスに携わるか、以前から興味のあった飲食店を経営するか、という2つの道だ。だが、生活のため日本から引き受けていた仕事に忙殺され、英語の壁もあって、シリコンバレーで働くことはかなわなかった。
一方の飲食店経営も、開業の間際に断念した。繁盛している店であっても、ひと月にせいぜい数千人としか関われないだろう。ならば自分は、数百万、数千万の利用者を相手にするインターネットのサービスを創り世界で勝負したい、と思い至った。「インターネットビジネスこそ天職。それ以外はもう一生やらなくてもいい」。そう腹をくくった04年末、山田は帰国した。
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